白川郷で暮らし始めて2年目の春、近所のブナの森の地面が、足の踏み場もないほどに、辺り一面、ブナの赤ちゃん(実生)で覆われていた光景を目にした時の新鮮な感動を今でもよく覚えています。
森の溢れんばかりの生命力を感じずにはいられませんでした。
木の芽生えは、漢字の「生」の字の起源にもなっているようです。
漢字の起源は古く、少なくとも紀元前12世紀にはその起源となる文字が誕生していたと考えられています。現在では、姿や形を絵画的に表現した象形文字をはじめ、「一」「二」「三」のように記号で表すものや(指事文字)、既成の文字を組み合わせたりすることで様々な意味を表す文字(会意文字や形声文字)があります。
「生」の字は「草木の芽が土から出る」様を表している象形文字(一説には会意文字)と考えられていますが、さきほどの春のブナの森の光景に出会う前の私には、なぜ、木の芽生えの様子が「生」の文字の起源となったのか、全くピンときていませんでした。しかし、ここ白川郷の森の中で春を迎えるようになって、「生」の字の形とその意味が、とてもしっくりと納得できるようになりました。
果たして、「生」の字を編み出した古代の人々が、私と同じような光景を目にしたかどうかは定かではありませんが、体験することではじめて‘真に’理解できることがあります。
自然學校の人気プログラムの一つに‘ナイトハイク’という、暗闇に包まれた夜の森を、灯りなしでインタープリターがご案内するプログラムがありますが、月夜の晩にお客様を森へご案内する前の動機付けに、私はしばしば「明」の字の起源を話題にします。
「明」は「日」と「月」の組合せでつくられた文字かと思いきや、
「窓から差し込む月明かり」の様を表しているという説があるのです。
その説によれば、「明」の文字の偏(へん)は「日」ではなく、「窓」を表しているのだそうです。その真偽はともかくとして、そもそも「窓から差し込む月明かり」が「明るい」と感じる体験がなければ、こうした発想は生まれません。夜の森へは、窓から差し込む月明かりが本当に「明るい」のかどうか、実際に自分の目で確かめに行きましょうということで出かけていきます。
大切なことを伝えていくには、まずは体験から。これまでの私の人生経験のなかでも、言葉で理解してもらうためには、伝えようとする相手にその言葉を理解できるだけの経験が必要だなと感じることがしばしばありました。今では、その経験の差が理解や共感できる力の差につながってくるのだろうと感じています。
人々の分断が危ぶまれる今、この試練が私たちの共感力を高めることにつながることを願っています。
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